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新しいものを入れるには余白がいる

10 分前
読了時間: 6分
過去の成功を手放し 新しい自分を育てる
過去の成功を手放し 新しい自分を育てる

失敗をやめるより、成功を手放す方が難しい

新しいものを入れるには余白がいる

アンラーニングという言葉があります。かつて自分を成功へ導いた思考の枠組み、長年慣れ親しんだ行動パターン、愛用してきた道具を意図的に見直し、新しい学びを受け入れる余白をつくることです。

過去の経験をすべて忘れることではありません。今も役立つものを残し、役目を終えたものを手放し、新しい環境に合う考え方や方法を学び直します。

失敗した方法なら、やめることはそれほど難しくありません。意外に手放しにくいのは、かつて成功した方法です。その方法には、努力、自信、周囲からの評価が結びついているからです。


瞬間湯沸かし器に反対した母

昭和時代の昔話ですが、私の母は、家に瞬間湯沸かし器を取り付ける話が出たとき、反対しました。今から考えれば、お湯を使うたびに沸かす手間が減る便利な設備です。それでも、長年続けてきた暮らし方を変えることには抵抗があったのでしょう。

慣れた方法には、単なる手順以上のものが含まれています。その昔ながらの手のかかる方法で家族を支えてきたという誇り、失敗せずにできるという安心、自分の役割を果たしているという感覚です。

新しい方法を勧める側は、便利さを説明するだけでは足りません。

古い方法が、その人をどのように支えてきたかを理解する必要があります。

手放すとは、「今まで間違っていた」と認めることではない、と信じてもらえないと喜んで前に進めないのです。


次の世代の新しい働き方に腹が立つ理由

夫婦とも医師のカップルいて、夫が育児休業を取る。現在では、仕事と家庭を両立するための望ましい選択として語られることが増えました。

しかし、その話を聞いて不快感を示した女性医師がいました。彼女は、周囲の支援が乏しい時代に、仕事を続けながら子育ての大半を一人で担ってきた頑張り屋さんでした。

新しい働き方を認めることが、自分の過去の努力を「必要のない我慢だった」と否定するように感じられたのかもしれません。

男性中心の環境で生き抜いた女性が、後から来る女性へ厳しく接したり、支援に否定的になったりする現象は、「女王バチ症候群」と呼ばれることがあります。ただし、これは女性個人を責めるための言葉ではありません。少ない席を競い、弱さを見せず、既存の男性中心社会の基準に適応しなければならなかった組織構造も背景にあります。

過去の努力が認められていない痛みを抱えたままでは、次の世代の変化を、自分の生き方への否定として受け取ってしまいがちになります。


過去の自分を承認してから 次へ渡す

必要なのは、「あの苦労には意味がなかった」と切り捨てることではありません。

あの環境の中で、私はよく頑張った。支援がない中で工夫し、仕事を続けた。その努力には価値があった。同時に、次の世代が同じ苦労を繰り返す必要はない。

この二つは両立します。

自分の経験を、後輩へ同じ苦労を課す理由ではなく、制度や文化を改善する知恵へ変える。

そのとき、過去の努力は否定されるのではなく、次の世代を支える力へ変わります。


40年分の電子顕微鏡資料を捨てた日

大学を退職するとき、私は40年間に蓄積した電子顕微鏡の資料を廃棄しなければなりませんでした。

電子顕微鏡は高価で大きな設備です。大学という研究環境を離れれば、それまでと同じ形で研究を続けることはできません。

写真フィルムや組織標本を廃棄しながら、私は初めて、「電子顕微鏡を使う研究者としての自分は、ここで終わるのだ」と実感しました。

長年育ててきたアイデンティティを失うようで、少し動揺しました。

医学研究者であることは、仕事の一つというだけではなく、私が自分が何もの、と捉える時の大切な枠組みだったからです。

けれども、なくなったのは設備と役割でした。

研究を通して得た知識、問いを見つける力、複雑なことを整理する力、人へ伝える力まで失ったわけではありません。


教育コンテンツを届ける新しい自分

私は動画配信という新しい手段を使い、教育コンテンツを届ける活動を始めました。

最初から自信を持って「配信者です」と言えたわけではありません。

動画の撮影や編集を学び、少しずつ発信を重ねる中で、新しいアイデンティティが育ってきました。

大学の研究設備は使えなくなっても、40年間に学んだことを次の人へ渡すことはできます。

以前とは違う道具を使い、以前とは違う相手へ届けられます。今では、この活動が私の大きな生きがいになっています。

アイデンティティは、一度決めたものを永久に守ることではありません。

これまでの経験を持ったまま、環境に合わせて更新できます。


手術室を離れて見つけた次の目標

外科医として長く働き、多くの実績を積み上げたある方は、手術室を離れた後、遠隔医療の仕組みをつくるという新しい目標を見つけ、生き生きと活動しています。

手術そのものをしなくなっても、現場を深く知る力、患者さんを思う気持ち、医療を改善しようとする意志は残ります。それらを別の方法で生かせば、新しい役割をつくることができます。

研究者も臨床医も、いつか設備や現場を離れる日が来ます。

その日を過度に不安に思う必要はありませんが、今のうちから「この肩書や場所がなくても残る自分」を、心の片隅で考えておくことは役に立つと思います。

実は私は大学を退職する3年前くらいから教育コンテンツの動画配信を少しずつ始めていました。

その経験がなかったら電子顕微鏡を失った後の自分の姿を探すのにもっと苦労したかもしれません。


役割のない自分にも価値がある

江戸から明治への転換期には、武士が刀や髷という身分の象徴を手放し、新しい社会の中で生き方を探しました。社会変革の痛みと個人のキャリア転換を単純に比べることはできません。それでも、人は長く自分を支えた象徴を失った後にも、新しい役割をつくれるという点では、励まされるものがあります。

最も大切なのは、研究者や臨床医でなくなっても、自分は大切な人間だと感じられることです。肩書、設備、業績は価値を表す一部であって、その人の価値のすべてではありません。

次の肩書を急いで決める必要もありません。転換期には、失ったものを惜しむ時間も必要です。そのうえで、役割を越えて残る強みと、これから誰に何を渡したいかを考えます。


コーチングは、アイデンティティが揺れる時期に、過去を整理し、まだ形のない次の自分を言葉にするための伴走ができます。


新しい自分を育てる三つの問い

1.      あなたをここまで成功へ導いた一方で、今の環境には合わなくなっている考え方や方法は何ですか。

2.      現在の肩書、職場、設備がなくなっても、あなたの中に残る強みは何ですか。

3.      次の自分のために、何を手放し、どんな新しい役割や学びを迎えたいですか。


過去の自分より輝く次の自分は、過去を否定した先ではなく、過去から受け取ったものを別の形で生かすところから始まります。

まず一つ、役目を終えた成功法則へ「ありがとう」と伝え、次の学びが入る小さな余白をつくってみませんか。


臨床40年、教授10年の経験とコーチングの視点から、忙しい医療者が自分の軸と強みを見つめ直し、よりよいキャリアを選ぶためのメッセージを週3回お届けしています。

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